演劇というツールが「いじめ」に対して何ができるか。

スタッフの竹森です。本日はめちゃめちゃ真面目な話です。

昨日、このような記事を見まして

なぜ「いじめ」はなくならないのか?春名風花さんがたどり着いた結論

この記事に共感するところがあったので、この話題に触れようかなと。

デリケートな問題だし、書こうかどうかものすごく迷ったんですが、メンターの羽子田さんが語ってくれたこと、去年の大舞台「親の顔がみたい」を見て思ったこと、そして自分が小学校、中学校でいじめられた経験があるからわかること、それらを踏まえて何か発信できたらなと、記事を書こうと思いました。

・データとして見るいじめ

平成28年度「児童生徒の問題行動・不登校等生徒指導上の諸課題に関する調査」結果

いじめの態様をみると、「冷やかし」や「からかい」が前年比で圧倒的に増えています。この裏には、件数が増えたというより、認知数が増えたということが関係しており、「いままでいじめだと思われなかったものがいじめと認識されるようになった」ということじゃないかなと。

・いじりなのかいじめなのか

よく「いじめ」じゃなくて「いじり」だからとあるんですが、

いじめを考えるときに、ここの認識の違いって重要じゃないかなと思います。

「いじり」か「いじめ」かを決めるのって、本当はやられた側のとらえ方なんですよね。「ふざけて叩いた」「いじって笑いをとった」などはやられた側がどう受け止めるかによって決まると思います。

でも、やられている側は「いじられてるのに対して文句を言ったら、場の空気が壊れてしまうんじゃないか」という怖さを抱えて何も言えない。表面では笑って過ごす事って、よくありませんか。

やっている側は軽く考えても、やられてる側は重く考える。この認識の大きなズレは結構大きいです。やった側っておそらく覚えてないんですよ。「そんなに悪いことしたっけ?」って。一方でやられた側はいつまでも残る。すごく不公平だなって思います。

境界線や許容範囲は人によってまちまちです。そう考えた時に、僕自身が誰かをいじって加害者にならなかったかだろうかと考えることもあります。

・羽子田さんが語ってくれた「演劇が持つ力」

メンターの羽子田さんが語ってくれました。

メンター 羽子田 洋子

演劇では、役に入るとき、「この人はどんな人なんだろう」と知るところから始まります。それが自分にとって好ましくない相手でも役を振られたら考えなきゃいけません。

この「自分にとってあまり好ましくない人間」でも、過去に何が起きて今の人格が作られているか、何を考えているのかを深く深く掘り下げて知ろうとすると、その人間の様々な面が見えてくるんです。そのうえで改めて役に入ろうとすると、今まで「自分にとってあまり好ましくない人間」が共感できるようになってくるんです。

この「知らない人を深く知ろうとする経験」を積んでいくことが、子供たちに非常に重要な経験になると思います。「相手を知ろうとする経験を積み重ねること」が、人の気持ちを知ること、コミュニケーションを構築すること、相手の本当の姿をとらえることにつながるんじゃないかと思います。私は演劇を行っていく中で、相手を知る力を養いました。

いじめって、年齢が上がっていくとだんだん件数が減ってきます。

成長すると色々な価値観、多様性を身に着けて、物事を客観的視できるようになるんですよね。

演劇などを通して、早い段階で「相手を知ろうとする経験を積んでいく」ことで相手の立場、考えを理解できるようになるってすごく大切なことだと思いますし、いじめを減らせるのではないかと思います。

ただ、いじめを完全に無くせない大きな問題があります。

・いじめが持つ、もう一つの問題

「傷つけることによって自分の存在を相手に刻み込むことの喜びを、垣間見たんです」
いじめも同じだと彼女は言う。いじめている間は、いろんな人に認識されて承認欲求を満たされる、と。「弱い人を傷つけるって、簡単にできるし、楽しいんです。ただ……」

何かを思い出しているような、絞り出すような間があった。下唇を少しだけ噛んだあと、ややつらそうな声で言う。「ただ……、ふと罪を自覚した時に、とてつもなく苦しくなるんですよね」

なぜ「いじめ」はなくならないのか?春名風花さんがたどり着いた結論より

いじめの持つもう一つの問題がこれかなと僕は思います。

共感して他者を知ることで、「いじり」みたいなものは減るかもしれませんが、もう一つの根が深い問題が「いじめは楽しい」ということだと思います。ちょっとしたいじり」「重いいじめ」って、質が大きく違うんですよね。

上野さんの相談室では、いじめについて書いていました

善悪の問題は別にしましょう。
イジメは楽しい。
これは紛れもない事実です。
人間を自分の支配下に置く快感。
人に暴力を働く快感。
利益を享受する快感。
不幸な人間を見ることで自身の安心を再確認する快感。
イジメは楽しい。
間違いなく楽しいのです。
この認識を間違えてはいけません。

いじめは楽しい、だから無くならないより

いかに相手の気持ちに共感したとしても、「楽しいからやめられない」「あの人がいじめられてるから自分は安心だ」となったら、いじめをやめさせる、撲滅するのってすごく難しいんじゃないかなと思います。

・いじめたことがもたらすもの

去年、シナリオクラブで大舞台公演したものなのですが、重いいじめを題材にし、いじめた側の親たちがどうするのかという話でした。

演出したメンターの清家さんにこの作品をやりたかった意味を聞いてみたのですが、

「物語はここで終わるかもしれないけど、彼らの人生は続いてく。いじめた側が持つ責任。転んだ人生。それらを誰かのせいにするのではなく、自分自身がしっかりと向き合って、そのうえで、誠実に人生を生き抜こうよという事を伝えたかったんです。」

この舞台は、

誰だって自分の子供は可愛い。

誰だって自分の子供を信じたい。

でもその選択は正しいのか、いじめた側の親たちが悩みに悩むという物語でした。

劇中では決してハッピーエンドは訪れませんでしたが、それでもどうやって進もうかということで終わりました。この演劇を見て思ったのは、いじめの行きつく果ては薬物で破滅する人に近いものだなと思いました。自身の楽しさのために相手を虐げて、もし相手がそのまま不幸な事になったら、家族も全員含めて大変なことになる。それだけのリスクを背負っているのだぞと。

それだけの事をいじめる側は想像できているのだろうかと、舞台を見ながら考えてました。

・最後に

「もうひとつは演劇をすることです。ぼくがお芝居をしているから思うことなのですが、人間のいろいろな立場を実際に経験することによって、はじめて理解できることもあると思うんです」

なぜ「いじめ」はなくならないのか?春名風花さんがたどり着いた結論

いじめを完全に撲滅するのは大変なことだし、言葉だけで訴えかけてもなかなか変わらないと思います。

でもメンターさんの話や大舞台を見て、「いじめた側のリスクの可視化」「いじめる側、いじめられる側の気持ち」

演劇は、これらを学ぶツールになるんじゃないかなと思います。

 

スタッフブログに戻る